2012年5月11日金曜日

政治的スペクタクルとしての同性婚

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は9日、ABCテレビのインタビューで、「同性カップルの結婚を可能にすべきだ」と述べ、同性婚を支持する考えを初めて明確に表明した。米大統領が同性婚を支持したのは初めて。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120510-00000010-jij-int

オバマ氏が同性婚の支持を公に発表したことで、にわかに波風がたってる今日このごろですが、いやまあしかし、どうなんだろうね。

僕もいい歳なので、帰省したりすると「いい人いないの?」なんて嫌味を言われて愛想笑いを返すしかない立場なのだけれども、じゃあ同性婚ができればいいのか、というとそれはなんか違う。極めて個人的な心境を綴れば、僕にとって同居生活を送るというのは、喜びや悲しみや美味しさや醜さや、あるいはお湯やトイレや台所やベッドや冷蔵庫をシェアするということであり、その共有する楽しみや辛さを、自分が大切だと思っている人と分かち合うことを意味する。そして、その共有者は性別を問わない。そして、この共有生活は「結婚」という法的形式をとらなくても構わない。

「結婚」や「婚姻」という観念は、大昔から近代まで、社会的再生産という考えと緊密に結びついてきた。かつては農業労働の担い手をつくるために子作りが行われ、近代では工場労働や軍事行動の担い手をつくるために子作りが行われてきた。近代日本はその社会的再生産を効率的に行うために、家制度を法制化して女性をイエの中に囲い込み、自由を制限してきた。

しかし、現代では結婚と社会的再生産は直接的には結びつかなくなってきている。先進国の都市部の人々にとって、子どもはアンビバレントな存在だ。もし自分の老後の生活費を子どもに肩代わりさせようと思ったら、子どもの教育に大金をつぎ込まなければならない。しかし、だからといってその投資額を実際に回収できるかどうかはまったくわからない。このような理由から、先進国では少子化傾向が続いている。

しかし労働力の心配はいらない。なぜならグローバル化によって国際移動が頻繁に行われるようになった結果、労働力の担い手は、もはやドメスティックな再生産システムに依拠しなくてもよくなりつつあるからだ。もちろん、ここには「先進国」と「新興国」「途上国」との間の大きな格差が、その国際移動を促す原動力になっていることを忘れてはならない。先進国の男女が妊娠・出産によってキャリアに傷がつくことを気に病んでいる一方で、インドの貧困層の女性たちは先進国の女性の代わりに代理母ビジネスを行なっている。

このような状況にあって、「結婚」「婚姻」というドメスティックな制度はその存在意義を失いつつあるように思えるわけですよ。そして、別の方向から言えば、確かに現在同性同士の生活に既婚者と同様の法的保障があたえられていないからといって、もはや死に体である「結婚」「婚姻」制度に組み込まれなくてはならないという理屈がよくわからない。

確かに現状では、「結婚」「婚姻」制度に組み込まれることで得られる社会的利益というものがあるのかもしれない。「結婚」「婚姻」制度が死に体だとはいっても、現状は過渡期なのだからそれに乗っかることには意義があるのかもしれない。でも、沈みかかった船に乗ってどうするのだろう、という気もする。

必要なのは、「結婚」「婚姻」という古色蒼然とした観念を引きずることではなく、自分たちの生活の実質にあった制度を要求することじゃないのかな。同性間の暮らしの中で出てくる、異性間の暮らしと通じ、あるいは異なる実質的な問題をサポートする制度をね。

オバマ氏は確かに勇気のある発言をしたとは思うけど、自分たちにとって「結婚」「婚姻」制度はほんとに必要なのかどうか、きちんとした議論を継続していく必要がある。そうした議論が継続されないのでは、結局「同性婚」はオバマ氏や米民主党の政治的スペクタクル(=見世物)の小道具として消費されちゃうだけだと思うよ。